樹林伸はどう原作者になった? 編集者時代の書き直しから独立まで

インタビューに応じる樹林伸 樹林伸
早稲田大学の本人インタビュー掲載写真。撮影:加藤甫。

『GetBackers』の青樹佑夜、『サイコメトラーEIJI』の安童夕馬は、いずれも樹林伸のペンネームです。
樹林さんは講談社の漫画編集者として働きながら原作も書き、1999年に独立しました。
本人の回想をたどると、入社前の小説執筆を経て、担当編集の仕事の中で漫画の話作りへ進んだ経緯が見えてきます。

インタビューに応じる樹林伸
インタビューに応じる樹林伸。早稲田大学の本人取材より。撮影:加藤甫。 出典

小説を書いたのは、就職に失敗した帰り道から

樹林さんが物語を書く仕事を意識したきっかけは、大学での就職留年でした。
出版社や広告代理店、テレビ局などを受けても就職が決まらず、立ち寄った本屋で江戸川乱歩賞の受賞作と募集広告を見つけます。
そこで原稿用紙を買い、翌日から小説を書き始めました。

応募作は受賞しませんでしたが、書いた途中の原稿を親に見せると、先を読みたいという反応が返ってきたそうです。
自分で考えた物語を誰かが楽しんでくれる。
その経験から、物を書く仕事をしたいと考えるようになりました。

姉の樹林ゆう子の紹介でライターの仕事も始め、短い記事から特集、ほかの人の文章への赤入れへと仕事を広げます。
その後、1987年に講談社へ入りました。

樹林さんが漫画の編集を希望したのは、企画の段階から漫画家と一緒に物語を作れることに魅力を感じたからです。
この経緯は、早稲田大学の本人インタビューで詳しく語られています。

初担当作の打ち切りで、プロットを作り直した

『週刊少年マガジン』編集部へ配属された樹林さんは、新しい描き手を自分で探しました。
学園祭や同人誌の即売会へ行き、持ち込みの電話にも積極的に応じて、新人漫画家とネーム(コマ割りや台詞を入れた下描き)を練ります。
その一人が、後に『お天気お姉さん』『バカ姉弟』を描く安達哲でした。

安達さんの新人賞受賞を経て始まった連載が、『ホワイトアルバム』です。
ところが、読者アンケートではほぼ最下位になり、早くも打ち切りが決まってしまいます。
樹林さんは、まだ新人だった安達さんに連載を始めさせたことも含め、強い責任を感じたと振り返っています。

樹林さんは用意していたネームをいったんボツにし、安達さんの仕事場へ通ってプロットを作り直しました。
シリアス寄りだった展開にラブコメの要素を加え、読者が盛り上がれる展開を考えたのです。
本人の回想では、終盤のアンケートは7位、2位と上がり、最終回では1位になりました。

安達哲 ホワイトアルバム 1999年再刊本の表紙
『ホワイトアルバム』安達哲著、1999年再刊本。©安達哲/講談社。 出典

この作品に樹林さんの原作者名は載っていません。
出版社の著者表記も安達哲です。
そのうえで本人は、本格的に漫画のプロットを作った最初の経験として、この連載を挙げています。
担当編集者として話を立て直したことが、物語を作って読者の反応を得る喜びにつながったのです。

独立する前から、漫画原作を書いていた

樹林さんは『金田一少年の事件簿』の編集を担当し、後に天樹征丸名義で原作も手がけるようになります。
1996年に第1巻が出た『サイコメトラーEIJI』には、安童夕馬原作、朝基まさし漫画という名前が並んでいます。
1999年の退社より前に、編集の仕事と原作執筆を並行していたことが分かります。

原作安童夕馬・漫画朝基まさし サイコメトラーEIJI 第1巻の表紙
『サイコメトラーEIJI』第1巻。安童夕馬原作、朝基まさし漫画。©安童夕馬・朝基まさし/講談社。 出典

独立後についての本人インタビューでは、社員時代から複数の漫画原作に加え、『金田一』の小説も書いていたと説明しています。
執筆が多く、出社は週に1、2日という働き方になっていたそうです。

入社したときは、5年ほど修業して作家として独立するつもりでした。
しかし、やりたい仕事を任せてもらえる環境があり、勢いのあるマガジンが発行部数でジャンプを抜く瞬間にも立ち会いたかった。
在籍は12年に延び、1999年に講談社を退社しました。

『GTO』『シュート!』では担当編集者、『サイコメトラーEIJI』では原作者というように、作品ごとに関わり方が違います。
ヒット作を手がけたという紹介だけで、すべてを本人が原作として書いた作品にまとめることはできません。

原作を書きながら、作品全体を見る編集者の目

独立後は、漫画原作や小説に加え、ドラマ『HERO』への企画協力、歌舞伎『石川五右衛門』の脚本などへ活動が広がりました。
『GetBackers』では、青樹佑夜名義で綾峰欄人と組んでいます。
別名義と各作品の作画担当の関係をたどると、樹林さんの作品歴を広く見られます。

原作青樹佑夜・漫画綾峰欄人と記載されたGetBackers第1巻の表紙
『GetBackers奪還屋』第1巻。青樹佑夜原作、綾峰欄人漫画。©青樹佑夜・綾峰欄人/講談社。 出典

原作を書く仕事でも、樹林さんは漫画家や担当編集者と案を出し合ってきました。
一緒に『サイコメトラーEIJI』を作った朝基まさしは、樹林さんが周囲の意見を聞き、納得すれば原作を変える柔軟さを話しています。

当時の担当編集者だった栗田宏俊にも、その姿勢を目の当たりにした経験がありました。
樹林さんとネームについて長く議論した末、栗田さん自身が徹夜で別の原作案を書いたことがあります。
翌朝、それを読んだ樹林さんは、栗田さんの案を採用しました。
原作者として自分の案を通すことより、読者にとって面白くなる案を選んだのです。

これらの証言は、伊藤和弘の取材をまとめた『「週刊少年マガジン」はどのようにマンガの歴史を築き上げてきたのか? 1959-2009』の公開抜粋で読めます。
本人も同書で、退社をフリーの編集者としての独立と表現しています。
原作を書いた後も、絵や担当編集者の意見を含め、作品全体を見て直していく仕事だと考えているのです。

まとめ

樹林さんが独立をフリーの編集者としての出発と呼ぶのは、原作を渡した後も漫画全体を見ていく仕事だからです。
自分で書いた話に、漫画家や担当編集者の案を加え、必要なら書き直す。
肩書が原作者になっても、一緒に作る人の力を引き出す編集の仕事が続いています。

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