幻海は、悪党と戦っていても自分を正義とは呼ばない。
死々若丸に向けた「たまたま嫌いな奴に悪党が多いだけの話さ」は、その姿勢をよく表している。
ただ、「嫌いだから戦う」という理由なら、仙水も同じように見える。
彼もまた、人間が嫌いだと口にするからだ。
二人の違いは、感情で動くかどうかだけでは説明できない。
そこで手がかりになるのが、仙水の言葉に幽助が返した、短い悪態である。
死々若丸が攻撃した「正義」を、幻海は引き受けない
暗黒武術会で幻海と対戦した死々若丸は、暴力を振るいながら正義を名乗る者を嫌う。
相手を倒す行為を、正義という言葉で立派なものにするな、という反発だ。
幻海を「えせ平和主義者」と呼ぶのも、彼女をその側の人間だと決めているからである。
ところが、幻海は自分の暴力がいかに正しいかを語らない。
そもそも自分を正義だと呼んだのは、死々若丸の方だと指摘する。
彼が批判している「正義のつもりで戦う者」という前提を、幻海は受け取っていない。

ここで「たまたま」という言い方が効いてくる。
幻海にとって、自分が嫌う相手と悪党は重なることが多い。
しかし、自分が嫌うというだけで、その相手が必ず悪であり、自分が必ず正義になるとは言わない。
自分の好き嫌いを、誰にとっても正しい善悪の判定に置き換えない。
この一歩引いた態度が、死々若丸の挑発をかわしている。
仙水の「嫌い」は、人間全体に向かう
仙水も、自分が正義だと信じて戦っていた過去を振り返る。
死の間際に語るのは、人間を襲う妖怪を悪者と考え、自分を選ばれた戦士だと思っていた頃のことだ。

その考えを壊したのは、人間が妖怪を虐待する現場だった。
守るべき存在だと思っていた人間が、残虐な行為を楽しんでいる。
仙水にとって、人間であることは、善良さを保証してくれなくなった。
ところが、洞窟で幽助に示す答えも、人間全体についてのものになる。
仙水は、花も木も虫も動物も好きだと並べたあと、人間だけを嫌いだと言う。

かつては、人間の側に守るべきものを、妖怪の側に倒すべきものを置いていた。
今度は人間という種族そのものが、嫌悪の対象になっている。
この台詞では、人間への評価が逆転しても、種族全体をひとまとめにして判断する点は残っている。

仙水の過去を聞いた幽助の「極端から極端へ走りやがるからな」という評も、ここにつながる。
悪事を働く人間がいたために、人間というだけで守る価値があるとは信じられなくなった。
そこまでは理解できる。
しかし、その失望が人間すべてへの嫌悪になると、悪事を働いた者と、それ以外の者の違いがなくなってしまう。
同じ「嫌い」でも、幻海は自分が戦う相手について話し、仙水は人間全体について話している。
幽助は「人間」ではなく「てめー」に言い返す
人間だけが嫌いだと話す仙水に、幽助はこう答える。

乱暴な返答だが、「人間」が「てめー」に変わっている。
仙水が人類全体について話しているのに対し、幽助が相手にしているのは、目の前の仙水一人だ。
この返答では、仙水が語る人間の残虐さを否定する必要がない。
残虐な人間がいることを認めても、目の前の仙水を嫌うことはできるからだ。
人間全体が善良かどうかと、幽助が仙水と戦う理由は、別の話になる。
元霊界探偵と現役の霊界探偵という対決でも、幽助の返答は霊界の正しさを主張しない。
仙水という相手への怒りを、そのまま戦う理由にしている。
幻海も死々若丸に対して、正義側の代表として答えることを断った。
幽助は仙水に対して、人間全体の代表として善悪を論じることをしない。
目の前の相手と戦う理由を、世界全体の善悪にまで広げないのだ。
幻海の「たまたま」は、自分の嫌悪と世の中の正義を同じものにしない言葉だと読める。
自分が嫌う悪党を倒すことと、自分が絶対に正しい側に立つことを、幻海は分けている。
仙水への幽助の返答まで読むと、この台詞は幻海の洒落た自己紹介にとどまらない。
人間と妖怪を善悪に振り分けなくても、自分の理由で相手と戦えるという、幽助にも通じる態度を示しているのだ。

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