楳図かずおさんは、貸本向けの漫画を描く仕事から、少女誌と少年誌の週刊連載へ進みました。
1965年末には、一週間で4本描くこともあったと振り返っています。
後年の対談で明かしたのは、物語を5本ストックしておくという工夫でした。
作品を続けて届ける仕事は、どのように変わっていったのでしょうか。

出発点は、貸本向けの漫画だった
1955年に『森の兄妹』と『別世界』が出版され、楳図さんはプロとして歩み始めました。
『森の兄妹』は、水谷武子さんとの共作です。
その後、貸本向けの単行本を数多く手がけました。

貸本屋は、本を貸し出して読んでもらう店です。
米沢嘉博記念図書館の展示解説では、戦後に広がった貸本屋と、何度も借りられることに耐える、丈夫な本の作りが紹介されています。
楳図さんの初期の仕事も、本を借りて読む文化の中にありました。
上京後、二つの週刊誌で連載する
楳図さんが上京したのは1963年です。
『少女フレンド』で恐怖漫画を発表すると、『少年マガジン』からも声がかかったと回想しています。
1965年には、この二つの週刊誌で同時連載をしていました。
2009年の本人の回想によると、年末進行で一週間に4本必要になり、まだアシスタントを雇う前の楳図さんは、独りで描いたといいます。
週刊誌の大変さを初めて実感した経験だったそうです。

作品や掲載誌全体の歩みは、楳図かずおの代表作をたどる記事でも紹介しています。
忙しい連載を支えた、5本のストック
楳図さんには、週刊誌3本と月刊誌3本を同時に連載した時期もありました。
楳図さんは、2015年公開の伊藤潤二さんとの対談で、その頃はストーリーを常に5本用意しておかないと仕事が回らなかったと話しています。

楳図さんは物語を考える際、最後に派手な場面を見せるため、そこへどう進めばよいか逆算することもあったそうです。
寝る寸前まで、毎日怖いことを考えていたと振り返りました。
締め切りに向かって描きながら、次に描く話も考えていたのです。
まとめ
一週間に4本描く忙しさと、先のストーリーを5本蓄える工夫。
二つの回想を合わせると、連載を続けるために、原稿へ向かう時間と、次の話を考える時間の両方が必要だったことが分かります。
描いて終えるたびに次が始まる、その仕事の続き方まで伝わる回想です。

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